ことばのリハビリテーション その3

昨日はジョン・レノンの命日ということで、ラジオを付けると一日中彼の曲が流れていました(なぜかポール作曲のものまで掛っていたりもしましたが)。その一方で、月曜日にはアメリカ村でAZUREが摘発されたというニュースを受け、京都のクラブ界隈にも少なからぬ波紋が及んでいるようです。


音楽がたくさんの人に希望を与え続けていることも確かなら、迷惑なものとして石もて追われることもまた事実なのだなぁと、ひとりで合点していましたが、色々と聴いたり調べたりするにつけ、クラブ営業中の立ち入りを引き起こした通報の前には、日常的な住民との軋轢(クラブの帰りに夜更けや明け方の街で大騒ぎするお客さんがいて、それが街全体のストレスになったり)や、警察の指導との折り合いが付けられていなかったことなど、背景となる要因があったということを知りました(実際に遊びに行ったことも、関係者の話を直接聞いたわけでもなく、あくまで伝聞の域を出ないのですが・・)。


これはここ数年ずっと実感し続けていること、そしていろんなところで書き散らしていることでもありますが、遊び場をつくったり、面白いことを始めたりするのは、それほど難しくありません。アイディアと情熱があれば、でっかい花火を打ち上げることも、何かに対して声高にNOと叫ぶことも、大体においてはなんとかできるのではないかと思います。でも、問題はそのあとで、続けてゆくこと、維持してゆくこと、守ってゆくこと、そしてたえず更新してゆくこと、そのためには面倒なしがらみや煩雑な手続きを一つ一つ、ときにはほぼ毎日、こなしてゆかなくてはなりません。はじめからそんなことを想定しないのであれば全然構わないのですが、こと「場所」においては、やはり誰かが守らなければなくなってしまいますし、その「誰か」とは結局そこにかかわるすべての当事者(お客さん含む)でしかない、ということを、今回もまた強く思わされました。


ただ、それだけではなくて、この摘発がある種の「見せしめ」である、という見方にもうなずけるところがあります。さらには、これをきっかけに今後全国的に取り締まりが強化されたり、あるいは風営法そのものがもっと厳しくなったりするのではないかという心配や、奇しくも今またも議論の対象になっている東京都の条例改正案(非実在…というやつです)と同じように、良俗に反するものを取り締まることを建て前にして、管理の行き届いた社会に編みなおそうとする動きがある…そういう危惧に対しても、いまの僕の知識では、まだなんとも言えませんが、それでも想像に難くないのは、クラブの近くでは実際に不眠になるほど迷惑を被った住民が居て、明け方の街で嫌な思い(もしかしたら恐ろしい思い)をした誰かが居たとすると、そういう怒りがある特定のハコや音楽のサブジャンルのみに向かうことはまずなく、もっと幅広い、たとえばアンダーグラウンドミュージックそのものへの怒りや憤りに転化するのではないかということ、そしてそれが昂じると、結局はより広範囲な規制や取り締まりに向かう可能性があるということ、です。


でも、だからといって、「おとなしくしたほうがいいんじゃないの?」と言っているわけではありません。ひとが集まってくることによって成り立つ場所にとっては、維持するための退屈な手続きにも引けを取らず、面白いことを発信することによって得られる求心力が大事だからです。そして、面白さは、しばしばナンセンスなもの、病的なもの、過激なものに宿るということは、このお店のブログを読んでくださっているひとに改めて説明することもないでしょう。


結局のところぼくらは、もっと狡くならなくてはいけない。もっと用心深くならなくてはいけない、もっとずうずうしくならなくてはいけない、ばか騒ぎのその間にもばか騒ぎを終わらせようとする何かが滑り込んでくることを知っていなくてはならない、たえず目覚めていることは難しいですが、吹けば飛ぶような小さな力が都市の真ん中で自由と創造性を守ってゆくためには、たとえ切り離された隠れ家的コミュニティーのただ中であっても、ひとりひとりが外に目をやり、そこで何が起きているかを自分で判断できるようになり、そのうえで、管理されたお仕着せのエンターティメントではなく、自分の感性の赴くままに楽しみを見つけてゆくこと、おそらくそういうあり方が今この時代のパワー・トゥ・ザ・ピープルなのではないか、と思うのでした。