ことばのリハビリテーション その4

シグナレスのアルバムリリースを来月に控えて、いろいろと取材を受ける機会が増えてきました。何度か同じことを尋ねられているような気もするのですが、インタビュアーの方々は、それぞれ質問の切り口や話し方もご自分のスタイルを持っておられるので、その都度ごとに答えるセリフも、ぼく、相方の池永さんともに少しずつ変わってゆきます。
最後にインタビューを受けたのが2年ほど前で、それからこれまでは、どちらかというと「尋ねる」側に回ることが多かったように思えます。みんなうまく答えてくれるなあと感心してきたのですが、いざ自分の番になると、自分の考えを筋道立てて話すことの難しさを実感させられるばかりです。

尋ねられて、答えることによって発見する、というプロセスは、案外いろんなところにあると思うのですが、生活の細部によくよく目をやると、その作業は省略されがちです。やっぱり面倒くさいからでしょうか。普段はそれでもやっていけているだけに、かえって、たとえばインタビューのように「どう思ってるんですか」と聞かれてはじめて浮き上がってくる「自分が普段から何とはなしに考えていたこと」に、ほかならぬ自分自身が驚いたりします。
でも、さらに驚きなのが、その会話を通じて浮かび上がってきた「ある何か(それは答えとは限りません)」が、取材の現場の空気を不思議なほどに変えてしまうということです。尋ねる人と答える人の共同作業によって発見された「秘密」があるとすれば、それはその人の考えとか、あるいは人と成りとかいうことでさえなくて、声にして話すことそのもの、対話することそのものなのでは?と思わされます。


ライブハウスやクラブなどで、この曲がいい!と感じたとき、無性に誰かに話しかけたくなることがあります。伝えることといえば、ただ「この曲、いいね!」ということだけで、自分ひとりの中にとどめて、自分がアガるだけで何ら問題はないのですが、なんだか言わずにはおられない。かねてからこれは一体どういうことなんだろうと考えていたのですが、ここひと月ほどの間にぐっと「話す」機会が増えたことで、ちょっと分かってきた気がします。

ファンタジーの世界には呪文の本、魔法の本というものがあって、(実際に観たことがないので真相は分かりませんが)おそらくそこには呪文が書かれているのでしょうが、書いただけではただの文字のままです。実際に魔法になるためには、術者はそれを唱えなくてはならない、つまり「声」が必要となるわけです。たぶん、声を出すという行為のなかにあるマジカルな力を、はるかな昔から連綿と続くファンタジーの作者たちは実感していたのでしょう。
この例はこれ以上掘り下げませんが、いい!とか、好き!とかいう単純な感嘆符から複雑に入り組んだ思想体系まで、とにかく「声に出して言うこと」が、(感情であれ思想であれ)思われたことを確実に「在る」ものにするための重要なヒントであることは間違いなさそうです。小難しいことは抜きにして、ライブやパーティの間にフロアから発せられるメッセージに耳を傾けたことのある皆さんは、「イエー!」というあの掛け声の持つマジックをご存知でしょう。あるいは曲間に聞こえた見知らぬお客さんがふと漏らす「めっちゃいい!」とか「すげー!」とかいった一言に、その日のステージを約束され、救われた経験のあるバンドマンもきっと少なくないはずです。


ネットの発達と普及のおかげで、誰がどこでいま何を思っているか、簡単に知ることのできる-あるいは知ったつもりになれる-時代になりつつあります。ブログ〜mixitwitterfacebookといったツールが、発言とコミュニケーションの作法を大きく変えてきていることは、もう疑いようのない事実です。とはいえ、PCやiPhoneの画面上を流れて行く「みんなの声」が絶対に越えることのできないものは、ぼくらの耳がそれを聴きとろうと躍起になり、あるいは否応なしに飛び込んでくる、あの本当の「声」です。
話せば分かるかどうかはさておき、思った通りになるかどうかはさておき、やっぱり話さなくては伝わらない、共有できない(あるいは共有できなかった無念さを身をもって知る、という体験も)、起こり得ないものがある。今年はそれをあらためて大事にしたい!ということを、書きことばでここに記します。そんな矛盾から始まる2011年の初投稿でした。遅ればせながら、今年もどうぞよろしくお願いします。