以前と以後、なかったことにできないこと

何かの折につけ、なんとなくとても聴きたくなる音楽、読みたくなる本や漫画、やりたくなるゲーム、見たくなる映画、行きたくなる場所、等々、ジャンルは何でもよいのだが、そういうものがあるように思う。常に触れているわけではないのだけれども、いつも頭だか身体だかのどこかに沈殿していて、時々はかならず手を伸ばしたくなるもの。自分にとってのそういうもののうちのひとつに、『モールス歌詞集』がある。


『モールス歌詞集』はいつかそのことについてちゃんと書いてみたいと強く思っている対象であるから、中途半端に言及することはあまり本意ではないのだけれども、それでも今日、実家に向かうときに本棚から取り出してリュックに入れたのが『モールス歌詞集』であって、今何かを書こうとしてパソコンの前で数時間ウンウン唸っているあいだ、酒飲みながらページをめくっているのが『モールス歌詞集』であることは、やはり書いておきたい。


先月以来、いろんな事象が起き、またそれに対するいろんな人のいろんな発言を読んだり見たり耳にしたりして、その都度、自分ももっていたモヤモヤを言い表してくれているようで共感したり、あるいは違和感を覚えてふたたびモヤモヤしたり、といったことを繰り返してきた。多くの人がそうであるだろうと思う。


なんでこんなにモヤモヤするんだろうか、などと言えば、それは勿論これだけ大変な事態が起こっているからだからなのだが、でも一方で、その大変な事態=「現実」の圧倒的な存在、というだけでは説明できないものがあるように感じてもいる。


自分でもこういう言い方が合っているかどうかよく分からなくて非常に心許ないのだが、私の場合のモヤモヤの原因は、震災の日を境にしてそれ以前と以後が断絶してしまっているかのように自分の思考が流れてしまいそうになることに対する不安、であると思う(ややこしくてすみません)。


震災の以前と以後が断絶しているのはある意味では当然のことであって、「以前」ではほとんど本気では考えてもいなかった(少なくとも私はそうである)ような現実が「以後」の現在進行中なのだから、その「以後」の現実にちゃんと目を向けようとすれば「以前」と同じ認識でいられるはずもないのは確かだ。


しかし、とはいっても、人は「以前」の認識をそう簡単に脱ぎ捨てられるものなのだろうか、もし万一ホントにそんなことができるとしても、脱ぎ捨ててしまっていいものなのだろうか、いやよくないのでは、と思う気持ちも強い。震災の前後で自分は微動だにしてない、と言い切れるような人物であればともかく、私も多くの人と同じように動揺しているし、ものの見方にもいくらかの変化が生じてきている。そのとき、「以後」における私の認識は、先月以前のそれなりに長い時間をかけて形成されてきた自分のそれとは、少なからず抵触するし、齟齬をきたさずにはいない。


この齟齬を、自分は、人は、ちゃんと受け止めているだろうか。モヤモヤする。震災と原発事故の発生という現実を一種の元に戻れない断絶として強調することによって、逆に、その以前と以後のあいだの齟齬や矛盾が、見つめられないまま何となく隠されていってしまうのではないか。「こういう状況だから」「こういう状況だけれども」「こういう状況だからこそ」といった枕詞でもって、「以前」の自分と「以後」の自分とのあいだの齟齬が、なし崩し的に「なかったこと」にされていくとしたら、それは本当にずるいことだと思う。


これはもちろん、まだまだ今後も続くであろう、現実のもっと危機的なたくさんの問題と比べれば、個人の内面だけのほんのちっぽけなモヤモヤに過ぎないものではある。けれどもそういうほんのちっぽけなものの集積としてこれまでもずっと自分はあったのだし、思い切っていえば、その卑小な問題こそがいつでも自分にとっていちばん切実に感じられる。


たぶん、そのように感じられているうちは、私は『モールス歌詞集』を欲し続けるだろう。自分のズレやブレ、世界の亀裂、そういったものを、先月なんかよりもずっと以前からずっと以後まで、通してちゃんと見つめる上で、たまに会う大切な友人みたいな本になっている