「考えてない」を考える

いつか読んだことのある話だが、「あなたのことをずっと考えているんです」とかいうときの「ずっと」「考える」というのはどういうことなのか、という疑問がある。


少なくとも、夜中パソコンの前に発泡酒とチーズ鱈並べて「内村さまぁ〜ず」見てゲラゲラ笑ってるときには、あなたのことは考えていない。昼飯を富士そばにするか松屋にするかここは少し奮発しておいしいもの食べてテンション上げるか、に悩んでいるときは全力でそのことに思いを巡らせているのであって、あなたのことはやっぱり考えていない。ここ最近、日中に外を出歩いている私が考えていることはといえば9割5分以上が「暑いなあ」である。で、電車に乗ればその9割5分がそのまま「涼しいなあ」になるだけだ。もしかしたら残りの5パーで次のライブのセットリストを考えるかもしれないが、あなたの入り込む余地はほとんどない。24時間の中で、あなたのことを考えている時間と考えていない時間をそれぞれ総計して比べてみたら、考えていない時間の方が圧倒的に多い。


こういう私が「あなたのことをずっと考えている」と言ったらそれはウソになるのだろうか?そうかもしれない。でも、うーん、やっぱり自分の感触としては、ずっと考えている、と思っているのだけれども。「考える」って何だ?


「考える」というのを単に「念頭に置く」ことだとしてみたらどうだろう。「あなたを念頭に置いて生活しています」。うん、大体においてそうであるような気がする。でもじゃあ、あなたを念頭に置いてチータラ食っているかどうか。あなたを念頭に置いてジャンプ読んでいるか。あなたを念頭に置いてプリンタを修理……と、今度は「念頭に置く」というのが結局何なのかよくわからなくなってくるのである。「考える」ことを考えるのはやはり難しい。


たとえば、ある非常に責任のある役職に就いている人が「計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもきちんとやっていける社会を実現していく」と言ったとして、それについて「考えてない」という形で文句をつけることは、どうして可能なのか。発言内容そのものではなく、それを「よく考えないで口にした」ことが何よりもまず問題とされる。アホみたいな疑問で申し訳ないが、ここで問いたいのは「だとしたら、もしよく考え抜いた上でのその発言内容ならば支持するんですか」ということだ。これに対して本気でイエスと言う人をほとんど想像できない。


ということはつまり、「考えてない」という批判(というか非難)は、今回の場合、その背後に「もしもよく考えたのだったら、そんな発言はしないはずだ」という見えない意見を隠し持っているのであり、それは裏返せば、「そんな発言をしている時点で、よく考えていない証拠」というかなりバイアスのかかった前提に依拠していることになる。その意味で、「よく考えていない=思いつきだ」という言い方は、発言内容それ自体の是非には直接関与しない「中立」の立場のように見せかけておきながら、そのじつ、時代の権力の空気――たとえば「脱原発は無知」というような――に乗っかりつつそれを強化する機能を果たす、とても恣意的な意図をもったものなのだと思う。


この「空気」というものが一番厄介で、そして最強のものだ。その人が「よく考えた」のか「よく考えてない」のか、現実的なのか非現実的なのか、などという表面上の問題の裏にはいつもこの「空気」が流れている。そしてこのまったくもって無色透明なんかじゃない「空気」が、「現実」の名を借りた既成事実として威力を発揮するとき、その確たる実体のない「空気」そのものとたたかうのは容易でない。


そんなわけで私は、自分もまたその中で息をしているこの「空気」の正体や起源を見きわめるべく、あなた(5ヶ月前や66年前からのこと)をずっと考えている、つもりだ。相手がどういう奴で、どうやって対峙してやればいいのかを、チータラ食いながら。「ずっと」なんて本当か、というその話については、これからもうちょっと考えてみます。