空気を越えて、あるいは空気の両端で

 先日のブログでコジマ君が書いたこと。
 http://d.hatena.ne.jp/sunrain/20110816/1313558173


この「空気」というものが一番厄介で、そして最強のものだ。その人が「よく考えた」のか「よく考えてない」のか、現実的なのか非現実的なのか、などという表面上の問題の裏にはいつもこの「空気」が流れている。


 くうき、について話すとき、いつも頭の中で口ずさむのは、この曲です。


 コジマくんが例に挙げた「脱原発は無知という空気」、これについてすこし触れると、「あのひとは無知だ。経済に及ぼす影響や、実現可能性の低さについて、何一つ考えることなく、とりあえず原発やめろと叫んでいるだけだ」という主張の、理由と結論がひっくり返って(あるいは無理矢理ひっくり返して)「原発やめろ、ということ自体が無知の証」というセンテンスに変わるとき、そこに「空気」が生まれるように思えます。
 「空気」は、考えない。それはオートマティックに生成され、いつの間にか僕らを取り囲む。「空気」の中で寝起きし、「空気」を読めば、考えずにすむ。そのかわり、空気に対して否定的なリアクションは致命傷となり、ときには「空気」の外、「空気」に対するオルタナティヴに思いをはせること自体が悪になることさえもある。


 (以下余談。ここまで書いて、ふと「脱原発」の側も同じ「空気」じゃないのか?と思ったのですが、こちらを動かすのは「空気」よりも具体的な「不安」と「憤り」が強いように見受けられます。この二つは同じように、考える力に対してマイナスな作用を及ぼすこともありますが、「空気」と違って「不安や憤りを取り除く方法」について考えることを悪だとはしない。デモが体現する「主張」は、それ自体が「空気」の打破であるようにも思えます。)



 さて、ここまではコジマ君の記事を受けてのこと。いまからぼくが書くことは、「考える」のその次―つまり「表現」。「声を上げ、筆を取り、キーボードをたたく」ということ、なかでも(レコ屋のブログですから)音楽と「空気」の関わりについて、です。


 表現する者、創作する者は、おそらく誰よりも「空気」を感じ取ることに長けていなくてはならない。「We Shall Overcome」や「The Times They Are A-Changin'」が一時代のアンセムになったのも、それがSSWたちの「メッセージ」であると同時に、彼や彼女を通じて湧きあがってきたその時代の空気の振動だったからなのではないでしょうか。けれど、空気を自分から「読みに」行こうとすると、先ほどから繰り返している通り、単純な思考放棄や安易な迎合に辿りついてしまう危険も大きい。RUMIさんが「敢えて空気読みません」と歌うのは、結局「空気を読むように奨励(あるいは強制)する空気」にたいして彼女が示した、鋭敏な拒否反応といえるでしょう。RUMIだけでなく、良心的な(あるいは乱暴なタグ付けを使うなら「まとも」な)表現者は、みな「空気」をキャッチするセンサーを(多くは無意識に)持っているはずです。
 あの日以来、それまで真綿で首を絞めるように存在し続けていた「空気」が、一気に吹き飛ばされたように感じたひとも沢山いるのではないでしょうか。あれ以降、人が変わったようにシリアスな表現に向かった人もいます。デモ等の直接行動の場に表現を求めた人もいます。あるいは、あえてより明るく、力強く、ハッピーな作風を突き詰めて行った人もいます。それらがみな「時代の空気」の中で生まれたのだと言ってしまうことも、あながち乱暴なくくりではないはず。


 もちろん、変わらないように見えるひと、自分のスタンスは不変だと明言するひともいますよね。「被災しなかったのに、震災があって変わってしまった表現者には落胆する。彼らの業はそんなに浅いものだったのか?」という声もときおりは聴こえたりします。ポップミュージックが普遍的なユートピアを描くのだとすれば、変わらないことはまったくもって正しいかもしれない。自分のカルマやトラウマと戦いつづけている創作者においては、もっと大事で根源的なものがあるかもしれない。
 でも、もういちど「空気」と表現の関わりという問題に戻り、こんどは別の視点から見てみると、あるキーポイントが見つかります。その表現が「空気」の作用でなぜ、どんなふうに生まれたかよりも、はるかに大事なことがある―つまり「どんな表現であっても、あなたが鳴らす音楽は、時代の空気の中で、鳴り響かざるを得ない」ということ。だって、音楽は時間の持続で、空気の振動なんだから。つまり、「空気」は、それがどんな「空気」であれ、そしてその表現がどんな表現であれ、音を立てればかならず震わせることができし、色を使えば彩ることができ、そして表現が「空気」を伝って届くもう一方の端には、かならず受け取り手が居る。音楽は奏でられて羽ばたいて、聴かれて着地するのです。別の言い方をすれば、「空気」は誰か(権力?マス・メディア?大多数?)に勝手に決められ、支配されるものではなく「あなたが何かを言って、ぼくがそれを聴く」という中にしかない。


 どんな小さな表現でも、もしかしたらどこかで大きな力に結び付くかもしれない。もちろん、しないかもしれない。ぼくは「アマゾンで羽ばたいた蝶 地球の裏で 竜巻起す Butterfly Effect」というラップが好きなのですが、そんなバタフライ・エフェクトが起きても、起こらなくても、表現ということに関して言えば、発信して受信する関係の連鎖の結果に他ならない思っています。

 

 発信するひとは、希望を失わずに、声を上げ続けましょう。放たれた音を誰も聴かない、誰にも聴こえない、ということは、ぜったいにありません。
 聴くひとは、耳をすまし、さらに自分で探してください。聴こえてきたもの、見えたものを消化し、つぎはじぶんの声に変えることができたら、それはとても素晴らしいことだと思います。
 サンレインレコーズは、やがてはその音が増幅され、伝達され、連鎖してゆくための開かれた場所になりたいです。「空気」に奪われることのない感性や思考が、様々な方法で花開いていて、めいめいが新しい芽を植えに来たり、実をもいでゆくような、そんな場所であればいいと思っています。



 さて、途中まではこの記事、月曜日にあった「FUKUSHIMA!」の話の前置きにするつもりで書いていました。途中で脱線してしまい、こんな冗長な文書になってしまいましたが…なんとか着地したような気もしますので、とりあえず載せてみます。