日記

 昨日「長岡京ソングライン」というイベントを覗いてきました。

 京都市の少し西、長岡京市にある長岡天満宮の境内に4つのステージを作り、40組あまりが出演。竹細工のワークショップ(長岡はタケノコの有名な産地です)なども行われていました。
 出演者は京都、大阪を中心に活動するインディミュージシャンが主でしたが、長岡京市の文化事業の一環として行われているという性質も影響するのでしょうか、エクストリームな音楽は一組もなし。アコースティックを基調としたラインナップで、4ステージの出演者がすべて弾き語りという時間もある、オルタナティヴ/ロック/アンダーグラウンドのフィールドになじんだ人間にとっては、すこし不思議なイベントでした。

 会場は入場無料、日曜の良く晴れた昼下がり、そして神社というシチュエーションということで、びっくりする程に子供や年配の方がたくさん!バンドマン、ライブハウスでよく顔を合わせるお客さんに混じって、出演者は知らないけれど、楽しそうだから遊びに来た、という態のご近所さんが、たこ焼きや焼きそばを食べながらステージを眺めている様子が、とてもよかったです。大音量の楽器がないので、各ステージ同士の音の干渉もなく、隣のステージに行くためにそれほど歩く必要がなかったのも、誰にでも楽しめる重要な条件だったかもしれません。

 このブログを読んでくださっている方のほとんどもそうだと思うのですが、ぼくらは普段「音楽好き」と言われる(あるいは自任する)トライブに属しています。自分でアンテナを張って、探して、マジョリティ/マイノリティを問わず自分にしっくり来る音楽を見つけようとしています。けれど、昨日のような場所に行くと、そもそも「音楽が好き」でない人間などいないのだった、という事実をあらためて実感させられるのです(例外:たった一組だけ、大学の学食で隣に座った女の子たちが「音楽なんて、百害あって一利無しやん」という会話をしていたのを耳にしたことがありますが)。
 昨日のイベントは、おそらく市から貰える限られた予算の中で4つのステージをつくらなければならないという制約上、音環境はお世辞にも良いとは言えないものでした。流麗なピアノのフレーズが耳障りに感じる瞬間すらあったのですが、そのたびに、きっとそんなことは問題ではないのだろうと思わされました。というのも、すべてのステージ、すべてのアクト、つまり会場にいたすべての人々に一貫してあったのは、とにかく「うた」を聴かせる、「うた」を聴きにくる、という姿勢だったからです。

 メロディと言葉を声でもって伝達するという行為は、なんとストイックなことなのでしょうか。しかもそのストイックさは、ほとんどの耳にあらかじめ備わっている性質なのです。長岡天満宮の境内のあちこちで歌声が飛び交い、それを求めて人々が行き交う姿、そして様々な場所で寄り道をしている姿は、小春日和の緑豊かな境内を背景に、独特な美しさをたたえていました。


 もうひとつ驚いたのは、ライブハウス関係者(店長やブッキングのスタッフ)が多数遊びに来ていたことです。ぼくは仕事が終わらず、午後3時くらいに会場へ着いたのですが、その後1時間で5人のスタッフに遭遇しました。自分のハコによく出ているミュージシャンが出演しているということに加え、イベント自体に対する注目度がそれだけあったのでしょうか。
 限られたキャパシティ、高い(と思われている)敷居、ライブハウスが持っている制約を越えて、自分たちが支持する音楽のあり方を提示できる―これは東京BOREDOMにもボロフェスタにも共通することですが、「現場」の人間が抱えている問題意識から発信される「フェス」には、ある付随的な目標があります。それは、自分たちの周りにはこんな面白い/素敵な/いい/音楽が流れているのだということを明らかにすること、そしてそのフェスが終わった後もライブハウスに、地元のミュージシャンに、個々の出演者のライブに、リスナーが足を運びたいと思わせることです。その目標はじつはとても難しく、「〜への出演を機に、爆発的に人気が出た」などという甘い話はあまり聴いたことがないのですが、それでも、「知らなかった、好きな音楽」との出会いの場所を(ライブハウスの外に)設けることが、次の扉をより多くの人にくぐってもらうための機会として、いまだに有効かつ必要とされている―長岡天満宮でこれほどたくさんの関係者と会ったという事実が、それを物語っているのだろうと思いました。

 ともあれ、ちょっと覗いて帰ろうと思っていたイベントだったのですが、会場の雰囲気があまりによくて、思わず最後の井上ヤスオバーガーまで堪能してしまいました。出演者がMCで口々に言っていた台詞ではありますが、ぜひ来年も、再来年もつづいて、家族で気軽に楽しめる音楽イベントとして定着していってほしいと思いました。