お祭りと神社ライブ


ゆーきゃんが京都で出会ったという長岡天満宮でのお祭りの文章を読んで、オレは「そうそう」と、左の掌を右の拳で叩くのである。いろいろと共感できることがあったことに加え、「神社でライブをやる」ということを最近ずっと考えてたからだ。

オレのオヤジの実家は神社である。オヤジは山口県の瀬戸内海に浮かぶ、周防大島という島の神社の神主を務める家系の長男なのだ。しかし神主の家業はオヤジの末の弟が継いでいるのでオレは東京でボンボンとしてデビューできたのだった。


小さい頃から、休みになるとその田舎の島に連れて行かれた。当時は、瀬戸内海に望む長閑な自然環境に対して、素晴らしいところ、というよりはただのイナカだと思ってた。しかしながらそういった環境的要因より先に「家が神社である」ということは幼いながらにそれを妙なステータスとして心に抱いていたような気もする。


「神社でライブ」のことを考えたのは今年の4月に行った、そのオヤジの実家、周防大島の長尾八幡宮で行われたお祭りの時のことだ。御年祭という、20年に一度必ず行うというお祭りだそうだが、歴史のことはさておき、実質は簡単な儀式と、後は氏子(お寺でいう檀家のこと)さん達へのサービスデーという感じのお祭りだった。普段お賽銭などで氏子さんからはお金をいただいている訳で、神社にとって氏子さんはお客さんのような存在なのだ。


地元の、実に地域密着型のお祭りで、ヤクザなどの絡まない呑気な屋台などが並んで、お神酒が振る舞われる。昔はただの田舎だと思っていたこの場所と神社に、いつしか理想郷のようなモノを見出すまでになっていたオレは、東京ではなかなか見られなくなった村社会的地域の結束と、そのコミュニティー感にただただ感じ入ってしまった。ファンサービス的に開催した福引き(しかも大した景品でもないのに)に殺到する島の人達の祭りを楽しもうとする姿に感動し、同じ日本人とは思えないほど原始人じみた婆ちゃん達の逞しい姿に美しさを発見して感動し、神楽で次々に披露される地元民による出し物の数々に感動した。人形のようにコチコチに固まって4人で津軽三味線を披露する婆ちゃん、ゆずのようなアコースティックソングで島のよいとこや家族への感謝を朗らかに唄うポジティブな(どちらかというとオレの苦手なタイプの)若い男女のユニット、幼児のフラダンス、やまたのおろち、とりわけ感動を誘った境内での剣道大会。オレはあまりにも居心地がいいので、そういう出し物一切に退屈することなく過ごすことができたのだった。東京からひょっこりやってきたオレのような部外者でも、疎外感を覚えず退屈することなく自然と過ごせる。こういう体験は過去にも、ふとした地域のお祭りに立ち寄った時に感じていたことだったが、その時はそれを強く意識した瞬間だった。


ゆーきゃんも言っているが、お祭りにおける「居心地」というのは大切な要素である。以前、東京の日比谷公園でやっていたアフリカンフェスタというイベントに行った時衝撃的に感じたのは、そこに老若男女が自然と集まっていることだった。本来お祭りとはそういうものであったはずで、そうあるべきなのだが、実際老若男女が自然に集まるようなお祭りは、そういった街のお祭りではちょこちょこ見かけても、音楽のイベントなんかではなかなか見つからない。特に都内の音楽のイベントではなかなかそんなのにぶつからない。
ライブハウスともなると特定の層の人間しか集まらない訳だから、「居心地のいいライブハウス」というのは難しいのだ。だけど自分達がライブハウスでイベントをやる時は、できるだけ「居心地のいい」空間を演出したいと思う。どんな年齢の人間が来ても、どんなジャンルの人間が来てもそれなりに楽しんでもらえるような空間を作りたいと思う。


神社の地元民の祭りに参加できて改めてそんなことを感じたのだが、同時にひとつの企み、というか夢が頭に浮かんだ。赤い疑惑も神社でライブをやりたい。不可能なハナシではなさそうではないか。長尾八幡宮のお祭りのように地元の人の出し物という体裁をとれば、ロックだろうがパンクだろうが、神社で演奏してもいいんじゃないか。OKを出すのは神主次第な訳で、後は音量の面で可能性を探ればいい。若い神主、または神主の若い息子なんかがオレの世代にもいっぱいいるはずで、その神主がロック好きバンド好きだったとしたら、と考えると難しいことじゃないような気がしてくる。そういう神主とトモダチになっちゃえば絶対できる!そんな風に思いを巡らせていたので、ゆーきゃんのレポートを読んで手を打ったのであった。


アクセル長尾