日本人の忙しさ

そろそろ2週間経つかな、と思ってサンレインのブログをチェックしたら、まだオレの文章が最新の記事のままである。2週間に一度くらいの間隔でよいので、とゆーきゃんに頼まれたんだけど、これじゃアクセル長尾のブログになっちゃうな。困った。



それにしても世間は忙しい。ゆーきゃんも忙しいに違いない。オレも忙しいし、世間も忙しいと聞く。しかしこの現代の時間の流れにあまり触れずに生きている人もいっぱいいる。日本は特にセカセカしていると聞く。これはオレの数少ない海外滞在期にも実感したことだから間違ってないと思う。


オレは大学の時に貧乏旅行と銘打って東南アジアに何回か足を運んだことがあるのだが、時間の流れる感覚というのは格段に違った。何だかゆっくりしているのだ。かといって東南アジアの人達が働いていいない訳ではなかった。むしろエネルギッシュに動いているな、という印象さえ残った。労働に対する感覚が日本のサラリーマン社会とは完全に違っていた。オレはイタリア、スペイン、ポルトガル南欧3カ国も旅したことがあるが、やはり時間の流れる感覚は違う気がした。先進国である西欧社会と比べても日本のサラリーマン社会は異様に映ったし、時間の感覚も同様に日本は、特に東京は目まぐるしい気がする。

ヨーロッパに貧乏旅行に行った帰りの飛行機のテレビモニターで、久しぶりに観た日本のニュースが非常に衝撃的だった。背広を着た政治家のおっさんの映像を見て、なんて貧相な感じだろう、と思ったのだ。東京に戻ってきて電車に乗った時、帰宅途中のスーツのサラリーマンを見て愕然とした。どいつもこいつも草臥れているように見えた。何で日本人はこんな姿なんだろう、と思った。国外に出ると、そういう日本の異様な姿を再認識することができるのであった。


オレは海外旅行して以来、スーツのサラリーマンという職業だけは絶対に避けようとと思うようになった。かといって肉体労働は苦手な文系大学生だったので、結局料理のバイトなんかを始めるのだった。しかし、その後ヘルニアをやってしまい、料理の仕事を諦めて事務のアルバイトに就いた。それから以降は所謂デスクワークをやるようになり、2、3年前、遂にスーツで出社するような派遣社員としてオレは電車に揺られるようになっていた。絶対に避けようと思ってたスーツで会社に出社という轍にオレはまんまと収まってしまったのだ。そして実際に仕事の後は草臥れた顔で電車に揺られていた。このまま、あの時観た草臥れた日本のサラリーマンみたいになって一生終わるのかな、と思うと妙に悲しかった。

その後もオレは二転三転してしまったので、結局今はスーツを着ないでもいい仕事に就いて、何とか生きているのであるが、いつも何だか忙しい。忙しいというのか気忙しいというのか。東京の通勤列車を見ていると毎日が戦争だな、と思う。パソコンとインターネットの普及で世の中の通信媒体が異常に発達してしまった。パソコンを広げるとメールとかツイッターとかSNSとか、一瞬にして社会が広がっている。パソコンの中でコミュニケーションは高速でやりとりされてるのであって、現にオレも随分とパソコンを触って意志の疎通をさせている。このブログもそういうことの結果なのであるが、このネットという存在も時間の感覚を気忙しくさせる要因になっていると思う。


よく海外の人は日本人ほど時間にきっちりしていないと言うけど、これもやっぱり間違いないことで、日本人は相当に時間にウルサく、時間に捕われて生きていると思える。運送会社に対するクレーム付けとか、ピザが遅い、とか、レベルは何にしてもそういう感覚が海外の人より明らかに尖っている。どうしてそうなったんだろうと思うけど、きっと戦後の日本の社会が、日本人をそういう傾向に仕向けていったのだろう。日本の土着の音楽を聞く限りセカセカした民族であった気がしない。俳句や短歌などの世界観を想像してみてもセカセカしていたはずがない。

ところで、ライブに行って得る楽しみのひとつに「普段のセカセカした生活を一瞬でも忘れさせてくれること」があると思うけど、どうだろう。バンドの爆音でも、静かな旋律の音楽でも、すっとそれが心に入ってきた時というのは特別な時間感覚が自分の中に発生する。時間を忘れさせてくれるよいライブやイベントは、そういった日々の鬱憤を発散させてくれる力を持つ。それはライブで演奏しているミュージシャンの側もそうなんであって、オレはライブの時の不思議極まりない時間感覚が好きで音楽を続けているのかもしれない。週末のライブやイベントに、お客さんは普段の鬱憤を晴らすべく行くのである。それは戦後にいつのまにか作り上げられたサラリーマン的社会や時間感覚、資本主義社会的金銭感覚を少しでも忘れさせてくれるものであってほしいと思う。