ことばのリハビリテーション その1

 まず正直に話しますと、ことばを「つかう」ことがどうもうまくできなくて、困っています。


 作品のレビューは、資料やアーティストから直接聞いた話からかき集めた情報を整理して並べるだけでも書くことが(一応)できます。そのうえで、ぼくなりに感じたことや「こういうひとが好きだと思う」という連想を働かせてテキストに落とし込むというポイントがあるのですが、ここ7,8年はほとんどそういう作業ばかりやってきたので、いまではそれほど頭を悩ませずにできるようになりました。なによりCD屋のコメントは自分の思いと同等以上(あるいは思いは前提で)に魅力を伝えるということが肝心で、つまりはそれに専心すればよいのですから。
 が、年を重ねるにつれて、じぶんを取り巻く日々の出来事や雑感を「文章」にして残すという作業が下手になっている気がするのです。文章力ということではなくて、「わたしを表現する」ということへの情熱が不完全燃焼になってきているといいますか―いや、やはり、それだけでもありません。冒頭の一行に戻りますが、ことばが「つかわれる」ことを嫌がっているように思えてきた、というべきでしょうか。


 たとえばこの一カ月ブログの更新がありませんでしたが(アクセルくん、ご迷惑をおかけしました)日々のエピソードには決して事欠いていたわけではないのです。ライアン・フランチェスコーニの来日ツアーのお伴で富山に行ったり、8か月かけて準備したボロフェスタが終わったり、高知でのイベントに呼ばれ、海に財布と携帯電話をさらわれたり、岡山でのライブは当日まで出演者が8組もいることを知らなかったり、生まれて初めてスタジオライブを主催したり…それら話の種が実際にテキストにならず、ぼくの中だけにとどまっているのは、たしかに多忙のせいでもありますが、なにより「ことば」が涌いてこないから、なのでした。
 とはいえ、このままではブログの更新がなかった言い訳をブログでする、という不毛な行為で終わってしまいます(ありがたいことに、いい加減に更新しろというお叱りもいただきました)。また、書かなければいつまでも止ったままですので…ブランクを取り戻す肩慣らしの意味も込めて、すこし書いてみます。


 ことばを「つかう」ことから解き放たれる瞬間について。


 ここにもう会えない人がいるとして、彼女が残したことばが、たとえばブログに、たとえば手紙に、たとえば記憶に残っているとき、それはもう彼女が「つかった」ことばではありません。ことばは日々、誰かの心を動かし、誰かの体を動かし、誰かのお金を動かすという目的に向けて使われていますが、ぼくらが彼女のことばによって得る感情は、どんな目的からも逸れています。それはあたかも、ことばそのものが、彼女と同じになってそこにいて、大きな価値になってそこにある、かのようです。


 ひるがえって考えると、この「そこにあることば」というものを強く感じさせてくれるものの一つに「うた」があるのではないでしょうか。どんなメッセージが、とかいうことではなく、誰に向けた、ということでもなく、歌われ、聴かれるなかで、ことばがいのちをもってゆく。作詞者や最初の歌い手の思惑を越えて、舞い上がってゆくことばにはもう意図や目的など二の次で、それ自体の力と意味を獲得しています。この過程は歌い継がれ、聴き継がれるような名曲であろうと、ぼくらのようなアマチュアミュージシャンが日々のライブハウスで搾り出している曲であろうと、おそらく、みな同じ。
 ただ、もちろん作曲者や演奏者、つまり「誰が」というのも重要な点であるでしょう。「つかわれる」ことから離れるために、発するひとをえらぶというのは矛盾しているように見えますが、カバー曲の素晴らしさなどには、そもそもの作り手の雑念を離れ、ことばがその純粋な意味を濾し取られているから、ということもあるはずです。
 いずれにせよ、ことばにはことばの価値や重みがあって、たとえ特に変哲のないフレーズや、日常会話と同じセンテンスであっても、会話や文章の文脈の中では別の機能に隠れて見えなかったそれらが、うたのなかでは声や音楽の力を借りて明らかになる。そういう瞬間が、少なくともぼくにとっては、うたを作ったり聴いたりすることの喜びのひとつです。


 それにしても、このところ問題となっている「流出」に使われたYOUTUBEというツールは、昨日とおい街で歌が流れたあの一場面を、こうやって離れたところにいるぼくらにも見せてくれるのでした。「百聞は一見に如かず」は、こと「音楽」に関しては必ずしも成立しないことわざですが、それでもまた歌う彼女に会えるこの映像は本当にうれしいです。

 あ、そういえば、ぼくがこころの中で彼女に語りかけることばもまた、相手を動かすという目的がない以上、「つかう」ことから解き放たれています。悼むことば、懐かしむことばは、誰のこころにあってもそれだけで詩なのかもしれない、と思いました。