正しさについて

 誰かがひとを殺して、その誰かが報復や制裁として殺されたとして、はたしてその時にぼくは嬉しいと思うでしょうか。
 国を揺るがすほどの大きな殺戮を起こした組織の犯人(ということにされている)ですから、やっぱりそこには相応の報いがあるような気もします。が、それでも、軍隊を一個投入して(きっとその行動には「なんとか作戦」という名前がつけれらていたに違いありません)、裁きの時間も真相を確かめる余地もなく行われた「復讐」は、正しいのでしょうか。
 あの9月11日、突然に家族や友人の命を奪われた誰かのことを考えると、正しいことのようにも思えます。けれど、(その理由はうまく言えないのですが)どこか違和感を覚えてしまうのも確かなのです。



 東京電力保安院の会見の様子を見たり、新聞を読んだりして、この既得権益階級のひとたちがどんなふうに補償をしよう(あるいはそこから逃れよう)としているのかを知るたびに、ただひたすらに憤り-ほとんど憎しみに近い-を覚えます。
 ぼくのこころのなかに湧きあがるのは「彼らには腹を切って詫びさせなくてはならない、私財を全て没収しなくてはならない」という意見です。でも、それはもう「正しさ」ではなくて、正しさを楯にした個人的な感情です。これは、いま責められている大人たちが同じく楯にして逃げようとしている、捻じ曲げられた「正しさ」とどんなふうに違うのか。ぼくはいつもここで立ち止まってしまいます。
 ほんとうに考えなくてはならないのは、悪さや正しさではなくて、責任の所在がどこにあるのかということ、そして海はどうやったら戻って来るのか、土はどうやったら戻って来るのか、ということではないでしょうか。失われた暮らしを取り戻すために、あるいは未来が奪われないために、今回必要な「裁き」は、「正しい」者が戦犯を訴追することではなく、ベストな選択肢を探してゆくことのはずです。
でも、これはとても難しい。なぜならば、こちらが「正しさ」をつかまえておかないと、すぐに相手が「正しさ」を持ち出して逃げてしまうからです。自分の利益を守るために都合よく持ちだされる「ルール」や「公共の福祉」は、それ自体「正しさ」でもなんでもありません。



 ミュージシャンが、大麻所持で捕まりました。
 法を犯すことは逮捕に値する、そのことは間違いありません。けれど、彼を、どこまで裁くのが正しいのだろうか。彼の音楽を愛し、楽しみにしていた人々は、彼を断罪するべきだろうか。それとも許すべきだろうか。バンドは、解散しなくてはならないのだろうか。彼が戻ってくるまで待つのではいけないのだろうか。音楽は、道徳に、健全な社会のルールに、みんなが安全で波風立たず暮らしてゆくために定められた「正しさ」に、どこまで従わなくてはならないのだろうか。サンレインにも彼のMIX CDが1枚ありますが、その素晴らしい作品をプレイヤーに載せても、答えはどこからも聴こえてこない――なぜならば、ここにはそもそも「正しい」音楽なんてなかったのでした。
 ぼくは、おそらく彼が戻ってくるのを待つでしょう。たくさんの、彼の音楽のファンと同じように。そしていつか、解散したバンドが(あるいは別のバンドになっているとしても)、再び「正しさ」とは無関係の、素晴らしい音楽を奏でる日が来るのを願うでしょう。



考えのまとまらない、散らかったテキストです。突っ込みどころもいっぱいあるので、これを上げるのには相当のためらいがあります。ただ、いま同じことが同時に3つ起きている―わたしたちがそこにあると思っている大きな「正しさ」は、じつはその影で誰かが自分の望むように振舞うための楯にすぎないのかもしれない(場合によってはほんとうに「正しさ」もきっとあるのでしょうが)―そんな気がして、書かずにはいられませんでした。
 いつか稿を改めて、こんどはもうちょっと筋道だったふうに書き直したいと思います。今日はこれまで。