雑記(今日によせて)

 3月10日、デモに行ってきました。
 

 京都は、明日11日に市街地一帯を使ったマラソン大会があるために、そのジャマになるような行動はできなかったのでしょう。そのかわり、ということなのか、前日10日に円山公園で大きな集会がありました。
 集合場所の円山公園音楽堂は12時過ぎからひとでいっぱい。ぼくはサブ会場の枝垂れ桜の下でフリースピーチを見ていました。30代後半のサラリーマンがマイクを握り、「本当のことがわからない。息子になんて言ってあげたらいいのか、わからない」としゃべっていたのがとても印象的でした。
 黙祷を終え、14時50分すぎ、デモがスタート。とくに深い思慮もなく先頭のグループにふらっと入ったのですが、ぼくの前はアイドルグループ「制服向上委員会」のメンバーさん、右隣には京都大学・原子炉実験所助教小出裕章と、気がつけば錚々たるメンツに囲まれての行進…途中で歩道から「ゆーきゃん!」という声を聞いたので、誰だろう、と思って振り返ったところ、METROのオーナーのニックさんとプロデューサーの林さんでした。ちょっと照れましたが、うれしかったです。


 集会やデモは、いわゆる「団体」ぐるみでの参加が多く、いわばもともと意識の高いひとたちが集まってのアピールで、ぼくのように何にも所属していない無所属・一般人の参加(団体といっても、特定の政治信条のものに集まっている人たちばかりではありませんから、そういう意味ではみんな無所属の一般人だったとは思いますが)はそんなに多くなかったのではと思います。U-streamなどでみたあの杉並デモのような盛り上がりはありませんでしたが、それでもほんとうにたくさんの、さまざまなひとが四条通から河原町通りにそって、声を上げながら歩いてゆくさまは頼もしいものがありました。


 デモ自体の感想とはちょっと違うのですが、街を歩きながら(デモは信号と関係なく車道を歩けるので、普段とはちょっと違った景色が見えます)あらためて、ぼんやりとかつはっきりと感じたのは、ぼくらがいつも当たり前だと思っている「日常」がいかに脆い土壌の上に立っているか、ということです。

 大部分のひとにとって今日と同じような「なんでもない日」だった3月10日、翌日に起こる出来事を誰が予想しえたでしょうか。ハードボイルド小説や映画の中で語られる「明日、そんな先のことはわからない」なんていう科白は、ずっと陳腐の象徴のように思ってきたのですが、そこにはある種の確かな感慨もあったのです。もしかすると、ほんとうすぎて陳腐に見えるだけだったのかも。
 予知もできなかった地震津波、さらにそのあとに続く原発事故、そういう出来事を経て(乗り越える、ではなく)1年後の今日へたどり着いた人たちが、相変わらず明日また何が起きるかわからない世界の上で、まだ生きている、生かされているっていうことをどうとらえるのか。
 デモの隊列のなかシュプレヒコールにあわせて「大飯原発を動かさないで」と叫びながら(ええ、どうせ声はちっちゃくて誰にも聞こえなかったと思いますよ!)、その一方でぼくは2012年3月11日14時46分を、どうやって迎えようかと、考えていました。


 追悼の祈り、復興への願い、原発行政への怒り、いろんな思いが渦巻きます。家を流された友人のことも、仕事を失った友人のことも、思いだします。震災のあとウェブ上を覆い尽くした一連の「不謹慎」糾弾ムードで、サンレインの売り上げも激減し、ほんとうに店を畳むしかないんじゃないかと思ったことも思いだしました。それらの気持ちをぜんぶひっくるめて、一年後の明日のあの時間は何をしたらいいのだろう、と。


 去年、さまざまなミュージシャンたちの脳裏をよぎり、口をついて出た「音楽に何ができるのか?」という問いには、結局のところまだ誰も答えられていないように思えます。いや、あるいはやっぱり大友良英さんがおっしゃったように、つまるところ音楽は「無力」でしかないのかもしれません。
 でも、パン屋さんの焼くパンにある「力」や、花屋さんの飾る花にある「力」を「できること」にカウントするならば、ひとを感動させたり、心地よくさせたり、場所を彩ったり、想いを代弁するという点では、音楽にもなんらかの「力」はあるはずで、そして、あってしかるべきだとぼくは思います―そこに経済的な、社会的な影響力があるのかどうかは別の、また個別の話だとして。


 今年、サンレインレコーズとしては、この日のために特別なアクションを起こすことはできませんでした(いや、思いつかなかった、というのが正確かも)。そのかわり、ぼくは個人として、OTOTOYのコンピレーション『PLAY FOR JAPAN 2012』に、キュレイターとして参加します。


http://ototoy.jp/feature/index.php/2012031101

 このコンピは、いわゆる音楽で食っているプロフェッショナルだけではなくて、兼業ミュージシャンも多数参加しています。完全な解答とは言い切れないながらも、2011年3月11日に起こり、いまも続いている出来事に対して「音楽で何ができるか」、答えようとしているひとたちの声や音が集まっていることは間違いありません。また、実際売り上げになれば、ひとつの「力」として働くことも事実です。



 おっと、あれこれ悩みながらことばを選んでいるうちに、日付が変わってしまいましたが―
 本日、2012年3月11日、各地でいろんなイベントがあると思います。どんなふうに今日を過ごすのかはまちまち。あるいは日曜ですが仕事があったりバイトがあったり、何も変わらないような日常を過ごすかたもいらっしゃるかもしれません。でも、今日がどういう一日であっても、それは一年前の一日とは決定的に違っているのです。


 ぼくらは生き残って、生き残されて、残った問題を解決しなくてはならない場所に立っている。それはぼくらの明日のためでもあり、ぼくらの後にやってくるひとたちのためでもあり、あの日いなくなってしまったひとのためでも、あります。デモ隊を指さして笑ったあの中学生も、迷惑そうな顔で追い越して行った原付のお姉さんも、けれどやっぱりおんなじように、過去と今日と未来にはおんなじくらい責任があるはずです。瓦礫のことも、避難の受け入れのことも、原発の再稼働のこともぜんぶ、明日の宿題について、仕事の調子について、曲の出来不出来について考えるように、考えなくてはならない。誰かに任せていては、いけないはずです。


 集会の帰り道、事務所に戻ってくるあいだに、烏丸御池の交差点で見たなんてことのない景色はいつもと同じようにきれいでした(ほんとうになんてことのない、冬の終わりのある日の午後です)。いつか街並みが変わってゆく、あるいは明日突然がらっと姿を変える出来事が起きる、どんなことがあっても、ぜったいにこの眺めを「あたりまえ」だと思わないようにしよう、あらためて、そう思いました。



 (3月11日、ぼくはライブをします。あの地震が起きた時間よりちょっと遅く、15時からの演奏予定です。その15分前、どこにいてどうするのかは、まだはっきり決まっていません。黙祷はするつもりでいますので、ここで前もって「お悔やみを〜」とか、上滑りの口上を書くのはやめておきます。どうか皆さん、今日も有意義な一日でありますように!)


 ちなみに只今のBGMは、ECD『DON'T WORRY BE DADDY』。2曲目「まだ夢の中」のなかの「まちがいなく父親先にいなくなる はたちになるころ70だぞオヤジ」というラインに胸をえぐられております。